キャシー中島・娘ごめんね繰り返す!昔に戻れるなら、もう一度七奈美を産みます!

愛する娘を亡くした悲しみを乗り越え、前を向いて生きるキャシー中島さん。

そんなキャシー中島さんですが、娘・七奈美さんへの思いは今も変わらず強いのでしょうか。

キャシー中島さんの言葉「昔に戻れるなら、もう一度七奈美を産みます!」には、どのような思いが込められているのでしょうか。

娘への深い愛情と、失った時間を取り戻したいという切なる願いが感じられます。

キャシー中島さんの心の内を探ってみましょう。

目次

キャシー中島と娘・七奈美との絆

出典:インスタグラム

キャシー中島さんと七奈美さんの関係はどのようなものだったのでしょうか。
二人の絆の深さや、七奈美さんの人柄について詳しく見ていきましょう。


明るく元気な性格で、家族思いだった七奈美さん。
キャシー中島さんは、七奈美さんの名前の由来について次のように語っています。
「夫(勝野洋さん)の本名の『六洋』と私の本名の『八千代』の間に生まれた愛する娘だから、”六”と”八”の間の”七”という字をどうしても入れたくて、七奈美と名付けました」。
この名付けの理由からも、キャシー中島さんの七奈美さんへの深い愛情が伝わってきます。


七奈美さんは歌手・モデル・ジュエリーデザイナーとして活躍し、明るく輝かしい未来が期待されていました。
キャシー中島さんは、娘の活躍を誇りに思い、常に応援していたそうです。
二人の関係は母娘というだけでなく、互いを尊重し合う良き友人のような関係だったと言えるでしょう。


キャシー中島さんは七奈美さんのために、手作りのキルトを贈ることもありました。
特に、七奈美さんの結婚の際に贈ったウェディングキルトは、キャシー中島さんの愛情がたっぷりと込められた特別な作品だったそうです。
このように、二人の絆は日々の生活の中で、様々な形で表現されていたのです。

 七奈美さんは2009年7月7日に肺がんのため29歳で死去。
キャシーさんは、生前の娘の写真を投稿し、当時の状況を回顧した。
「14年前の今日アトリエにいた私のところにかかってきた電話。
『七奈美が危篤になった。』大慌てで病院に行くと、まだ意識がある七奈美が起きあがろうとして、私たちに『ごめんね』繰り返し言います 
違う、あなたは悪くない! 七奈美は頑張ったよ、すごく頑張ったよ!」と会話したという。

キャシー中島の娘・七奈美の闘病と家族の支え

出典:インスタグラム

七奈美さんの闘病生活はどのようなものだったのでしょうか。
家族はどのように支え合い、この困難な時期を乗り越えようとしたのでしょうか。


2009年、29歳の若さで七奈美さんは肺がん(小細胞がん)と診断されました。
結婚してわずか2か月後に咳が出始め、その7か月後に他界するという急激な病気の進行でした。
キャシー中島さんは、娘の闘病中、常に寄り添い、できる限りのことをしようと奔走しました。


キャシー中島さんは、「娘がやりたいと思うことは何でもやってあげたい、治療だって家を売ってでも借金をしてでも、やりたい治療をさせてあげたい」と思っていたそうです。
しかし、同時に自身の感情をコントロールすることの難しさも感じていました。
「私は泣き虫でね、よく泣いていたんです。娘と会っているときはまだいいんですが、そうじゃないときは自分を保つことができなくて」と振り返っています。


この困難な時期を乗り越える上で、家族の支えが大きな力となりました。
特に、息子の洋輔さんの言葉がキャシー中島さんの心に響いたそうです。
「ママ、その涙は誰のため?」「ママが泣いているのを見たら、七奈美も悲しいよ」という洋輔さんの言葉に、キャシー中島さんは大きな気づきを得たのです。


夫の勝野洋さんも、キャシー中島さんを支え続けました。
二人で七奈美さんのお墓参りに行き、一緒に過ごす時間を大切にしています。


このように、家族全員が互いを支え合いながら、七奈美さんの闘病と別れという困難な時期を乗り越えようとしたのです。

キャシー中島の悲しみからの立ち直り

出典:インスタグラム

大切な娘を失った悲しみから、キャシー中島さんはどのように立ち直ろうとしたのでしょうか。
その過程で、キルト制作がどのような役割を果たしたのでしょうか。


七奈美さんの死後、キャシー中島さんは深い悲しみに暮れました。
「この時ばかりは、もう針は持てないと思いました。
毎日泣き明かして、記憶もおぼろげです」と当時を振り返っています。
しかし、約2か月後、「このままではいけない」「七奈美が好きなのは、泣いてばかりいる私じゃない。前を向かなければ」と思い至ったそうです。


キャシー中島さんは、小さな一歩から始めました。
「今日は明るい服を着よう」「今日は出かけてみよう」と、意識的に前向きな行動を取るようになりました。
そして、大きな転機となったのが、七奈美さんを想って作ったキルト作品「サンシャインガール」でした。


「ある時ふと七奈美の好きだったオレンジ色のキルトを作ってみよう、と思ったんです」とキャシー中島さんは語ります。
「マリナーズコンパス(羅針盤)」というパターンを中心に、七奈美さんの大好きだった明るいオレンジ色をたくさん使って作ったそうです。
「縫っていると七奈美と会話をしているようで、寝る間を惜しんで作りました」と、制作過程での心の変化を語っています。


この「サンシャインガール」をきっかけに、キャシー中島さんは立て続けに新しい作品を作り始めました。
「もう、泣かない」と自分に言い聞かせるように、夢中になって針を動かし続けたそうです。
キルト制作が、悲しみを乗り越える大きな力となったのです。


しかし、15年経った今でも、キャシー中島さんは七奈美さんの話をすると涙を流します。
「15年経っても気持ちの整理がついていません。やっぱり、立ち直るのは難しいの。娘を亡くすというのは、こういうこと」と率直に語っています。
それでも、「涙は見せたくないから、昔のことは思い出さないように努力しています」と、前を向こうとする姿勢を見せています。


キャシー中島さんの言葉「昔に戻れるなら、もう一度七奈美を産みます!」には、娘への変わらぬ愛情と、失った時間を取り戻したいという切なる願いが込められています。


この言葉は、悲しみを抱えながらも、娘との思い出を大切にし、前を向いて生きようとするキャシー中島さんの強さを表しているのかもしれません。

まとめ


キャシー中島さんと七奈美さんの絆は、深い愛情に基づいた特別なものでした。

七奈美さんの闘病中、家族全員が互いを支え合いながら困難な時期を乗り越えようとしました。

キャシー中島さんは、キルト制作を通じて悲しみから少しずつ立ち直ろうとしています。

15年経った今でも、キャシー中島さんの七奈美さんへの思いは変わらず強く、「昔に戻れるなら、もう一度七奈美を産みます!」という言葉に表れています。

これからもキャシー中島さんのご活躍を応援していきましょう。

それではありがとうございました。

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